2018.6.6 日々の活動日記

福島行きご報告②24・25日(2018年5月23日~26日)

念願の認定npo法人いわき放射能市民測定所「たらちね」さんにいってきました。震災直後、こどもたちの健康に不安を持つ母たちが放射能市民測定所をスタート。原子力発電所の事故による広範な放射能被害の下で不安な生活を強いられている彼女たち自身が、よりよく、より強く生きていくために設立された場所。不安の払拭にはその正体を追い詰め正しく識知することから始まる。いわき市民測定所は数十年後にこの事故による心と体の健康被害が少しでも少なくなるように、今やるべきこと、今できることを実行す測定期間を目指されています。 2017年5月にクリニックも併設されました。子育てだけでも不安なことが沢山ある日々。たらちねクリニックは子どもドック(被ばくという観点からこども達の健康を総合的に考えて・・・)たらちねクリニックでは、原発事故当時18歳未満の方が無料で甲状腺検査ができます。

初体験。ホールボディカウンターをしました。想像より簡単に体内の放射線量を測ることができました。知人は福島第一原発事故後、皆の為に作業し、生涯の被ばく量を超えました。沢山の人々が、この事故の後始末を皆の為にしてくれています。たらちねさんでは放射能測定をした作物等の結果を公表されています。(セシウム137と134)双葉町の切干大根95ベクレル。大熊町の柿皮101ベクレル。同じく柿の実39ベクレル。南相馬の庭の裏に生えていた苔 8820ベクレル。いわき市平下の土壌44580ベクレル。双葉群大熊町土壌60980ベクレル。東京都葛飾区の掃除機のごみ116ベクレル。郡山市開成の掃除機のごみ276ベクレル。茨城ひたちなか市干し芋2ベクレル。いわきふきのとう9ベクレル。等々こうして見えないものを見えるかして、選ぶことができることはとても大切だと感じました。

現在日本では、100ベクレル以下の食材は流通してよいことになっています。(震災前は殆どの食材が数ベクレル以下だったそうです)私の友は震災後魚を食べていません。理由を聞くとストロンチウム90を国は測っていないからと言います。たらちねさんでは、民間で初のストロンチウム90を測定する施設を作られています。1年先まで依頼が殺到していて、機械をもう一台増やされたとおっしゃっていました。放射能は目に見えないから、こうして測って目に見えるようにしないと解らない。測るにも様々な工程を踏まなければならず、大変な作業だと思いました。しかし、この様な場所は、そこに住む人々にとって大切な場所なんだと感じました。私は毎月少額ですがたらちねさんに寄付をしています。クリニックで子どもたちが無料で検診を受けれるように、これからも応援したいと思いました。お忙しい中、お時間を作ってくださった医院長の藤田先生・黒部先生本当に有難うございました。

次にお伺いしたのはチャイルドトータルサポートサービスwendy にお邪魔してきました。こちらでは震災後避難されて福島に戻ってきたママ達を対象にNPO法人ビーンズふくしまと一緒に(ママカフェ)を開催されています。2011年3月11日。あの日から私たちは数々の自己選択を繰り返してきました。自分自身でも、家族でも、たくさん話し合って悩みぬいて出した決断が、果たして正しかったのかどうか・・・。時間の経過と共に、守るべきものが大きいほど、その思いが膨らんだ日もあったことでしょう。悲しい涙も、嬉しい涙も、たくさん流してきた6年間だったといえるかもしれません。 一人一人の一滴が、誰かの胸に、あなたの胸に、あたたかな波紋を広げてくれることを願っています・・・(いただいた冊子より・・・)

次にいったのはNPO法人福島震災孤児・遺族をみまもる会「チャイルドハウス ふくまる」です。今まで知らなかったのですが、こちらの室内遊具場は、吉川晃司さんと布袋寅泰さんがコンサートをして得た収益を寄付されて作られた場所でした。お二人の言葉を読みながらもう嬉しくて!感謝でした。私たち大人に出来ること。皆で考えて力を合わせて行けたら幸いです。原子力発電所の事故は日本中が明日は我が身。日本全国に50基を超える原子力発電所があるのです。同じ思いで活動されている方々に出逢うと、勝手に親近感。本当にかっこいいと思いました。施設では子どもたちがお母さんと楽しそうに元気に遊んでいました。

今でもコンサートでオリジナルグッズを販売して収益を寄付されているそうです。

その後、富岡にいってきました。「天災に嘆く暇もなく、人災によって未だ終わらぬ被害をうけることになる・・・(伝えた3.11を伝える町「とみおか」より・・・」

一歩道を隔てて、生活が再開した富岡とバリケードで中に入れない富岡。バリケードを前に私の心が苦しくなる。ある日突然、自分の大好きな故郷を奪われる、生活を奪われる、大事な人々、人間関係を奪われる辛さは、想像しかできないけれど心が泣いた。

あの日から子どもたちの声が消えた富岡 (2000人いた児童が今は18人)

目に見えない放射能

大量の除染した土をどうやって処理するのだろう・・・福島の方々には見慣れた光景?

見慣れた光景・・・悔しい・・・

人通りもない・・・そんな中「誰も見てくれないし可哀そうだからお花積んできた」と一人の女性。 復興住宅がたったので、引っ越してきたとのこと。「家によってかない?」と

私に震災当時の話を聞かせてくださった。避難生活中にご主人も他界された。「この部屋から以前住んでいた家辺りが見えるの。家は壊したけど蔵は残して、そこに色々といれてるの。たまにいっては蔵を開けてしまっているものをみているの。他人からしたらガラクタだけど(笑)今は快適な生活をしている。こどもたちの声がしなくて寂しい」とおっしゃっていました。また逢いにいきますね!

その後NPO法人富岡町3.11を語る会代表の青木淑子さんと仲山弘子さんにお逢いしてきました。 青木先生は元富岡高校の校長先生をされていて、今は富岡の復興の為にご尽力されています。また3.11を語る会の代表もされています。頂いたお名刺の裏を紹介します。              語り伝える使命があるから 私たちは忘れんぼうだから・・・ 人災である原発事故を語り続けなければならない。私たちが何十年、何百年と続く語り部の礎を築き、避難者の思いを届けていきます。一人でも多くの方に震災の真実、被災者の状況を正しく知ってもらうため、私たちは語り続けます。でもみなさん「語り人」とは私たちの声をきいてくださった皆さん一人一人のことです。私たちの声は周りの人につたえてください。それが一番の願いです。聞いてくれてありがとう。知ってくれてありがとう。 富岡町3.11を語る会代表 青木淑子さん

その他沢山の方々のお話をお聴きする機会を頂きましたこと、心から感謝申し上げます。皆さんが福島の復興の為頑張っておられる姿にこちらが力を頂きました。